2014年2月9日日曜日

岡山港県営上屋のこと(岡山臨港鉄道の話題) ~その1~

このブログの柱となるテーマなのに、出し惜しみしてるわけではないのですが、遅々として進まない岡山臨港鉄道の話題。
まぁ、いろいろ写真はあるけど、現役時代の写真が無いのでねぇ。近所に住んでたけど、幼稚園年長組の時に廃止になったので・・・。
嗚呼、乗った時に親に写真撮るようにダダをこねればよかった。

さて、これは岡山港の写真です。
いい感じのクレーンでしょ!?

そしてタイトルの「岡山港県営上屋」とは、この写真の右に移っている倉庫のことですw

東京、横浜の港湾施設は、完全に出入り禁止で、時間外は門があって閉鎖されてしまいますが、岡山港は、今でも港湾作業がお休みの土日に、このクレーンの根元で親子連れが釣りを楽しんだりする、のんびりした光景が広がっています。
しかし、昨年には津波対策で、船が接岸しないエリアには、コンクリートの防波堤が設置されたり、ボクが子供の頃からは、少しずつ姿を変えています。
2009年5月撮影。

このクレーンは、鉄マニアでもあるボクにとっては、非常に萌える立派なクレーンですが、子供の頃は、岡山港にある三井製糖に船で運んできた砂糖の原料をダンプカーで三井製糖にピストン輸送していました。
小学校の頃、三井製糖を工場見学しました。工場には、ここで荷揚げされた原料糖の山があり、「甘いので舐めてみてください!」という言葉で山の砂糖を舐めまくっていたら、翌日見事にお腹を壊しました。
「人生、甘くない」ということを知ったのは、この時でした。。。

おっと、岡山臨港鉄道の話に戻します!

岡山臨港鉄道の現役時代、晩年の終点岡南元町を過ぎ、旧南岡山駅の車庫の辺りで、丸正製粉や三井製糖に伸びる引き込み線が別れていました。
十一番用水を渡り、(干拓地である岡南地域には、こんな名前の稲作用水路が何本もありました。ボクらは十一番川と呼んでいました)本線とは、丸正製粉を挟んで伸び、丸正製粉の敷地を出たところで、岡山港のメインストリート!?を踏み切りで渡ります。

写真(1)丸正製粉。サイロの前を通って、手前の門の辺りから線路が出て、踏切でした。
2007年撮影。

踏み切りの後すぐに、線路は何本かに別れます。
一本は、三井製糖構内に伸びて行きます。
写真(2)三井製糖構内に入る引込線門。1990年頃撮影。

もしかすると、今でもこの門の跡は残っているかもしれませんが、手前に倉庫が建ち、確認は困難になりました。 
写真(3) 2007年撮影。写真(2)から振り返って反対側の三井製糖工場。

ボクの記憶が、本当にギリギリ、おそらく3歳から4歳ごろ、父親に連れてきてもらった記憶です。
この辺りにはいつもたった1両、トラ55000か、45000と思われる無蓋車が止まっていました。
うーん、今、改めて思い返すと、トムだったような、あおり戸は、木製だったような・・・。
とにかく、踏み切り横にポイントと、たったトムorトラ1両分の線路があり、ボクは父親にその貨車に掴まらせてもらった思い出があります。父親曰く、その短い線路は昔はもっと先に伸びていた、とのこと。
土を掘り返せば、線路が出てくる、ともいっていました。
今思えば、その無蓋車は、三井製糖に砂糖の原料を運んでいたのでしょうか!?

三井製糖構内には、廃止になった後もしばらく線路が残っていたように思います。
線路は三井製糖構内を通り抜け、昔は小豆島行きのフェリーがあった道の脇に突然顔を出します。
写真(4)1990年頃撮影。上下に見える2本の茶色のものが、線路です。
右方向が三井製糖と岡山臨港鉄道本線。
左方向にフェリー乗り場と岡山中央卸売市場、同和鉱業。
え?線路の真ん中に、電柱が立ってるじゃない??

実は岡山臨港鉄道の現役時代から線路の真ん中に電柱は立っていたように記憶しています。
この線路の先には、岡山中央卸売市場や、同和鉱業の工場があり、それらの工場からの荷物を運ぶことを目的に線路を敷設したものと思われますが、恐らく現役時代晩年には、既に廃止になっていました。
そして、線路の真ん中にどーん!!と電柱が立てられてしまったわけですwww

岡山中央卸売市場ができた頃には、既に鉄道貨物衰退の時代。
昔の空中写真を見ても、だだっ広い空き地が広がっているばかりのこの線路、現役時代に実際に使用されたのでしょうか??

しかし、この線路は、本当に「忘れ去られた線路」となり、他の岡山臨港鉄道の遺構が消えていく中、21世紀までこの線路が残っていました。

今回の写真の撮影場所は、以下の写真のとおり。
タイトルの岡山港県営上屋の話は・・・?
次回に続く!!
国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省 昭和55年岡山より。








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